坂の上の雲

第9回 広瀬、死す 10年12月26日放送

広瀬中佐の歌

♪ 轟く砲音 飛び来る弾丸

 荒波荒ふ デッキの上に

 闇を貫く 中佐の叫び

 「杉野は何処 杉野は居ずや」

旅順港閉塞作戦を見た。

旅順を旅したのは、2008年だっただろうか?

旅順港にも行った。

203高地にも行った。

乃木大将が敵将ステッセル

会見した水師営にも。

数日前、ジム休憩室で、

いつも挨拶を交わしている男の人が、

「大連の話をしていたですね」と話しかけて来た。

それだけで、その人が満州引揚者じゃないかと、

訊いてみると、旅順からの帰国者だった。

お父さんは旅順工科大学の先生だったと。

俺が休憩室で大連引揚者の奥さんと

語っていたのが耳にはいったらしい。

俺が思いついた話題は、

「北帰行という歌は、旅順工科大学の歌ではなかったですかね」

そうは言ったのだが、歌の確認はまだしていない。

ここを書き込んでから、旅順工科大学

検索してみる。

軍神広瀬中佐。

俺がこの名前を知ったのは、小学5年生の頃?

クラスメートに広瀬君がいた。

広瀬中佐、母から聞いたような気がする。

広瀬武夫、必ず同時に浮かんでくるのは、

同級生の広瀬君だ。

俺の友人たちの中で、役人として

一番出世したのが広瀬君だ。

久しぶりに彼を見たのは、東北震災のあとの、

国会での彼の登場だった。

原発問題について語っていた。

昭和48年、俺は突然博多に行くことになった。

福岡で就職をした。

その時、部屋を探してくれたのが、彼だった。

九大大学院の学生だった。

一本のテレビ番組、思い出すことの多いこと。

その翌年、彼に送られて、台湾遊学に旅立った。

田端義夫の「十九の春」が流行ったのは、その数年後?

俺が「十九の春」を口ずさんでいたのは、そのころ。

台湾で出会った吉明さんと、

鹿児島で再会したとき、

彼が言っていた「田端義夫より、君の19の春が早かった」と。

俺は沖縄民謡の嘉手刈林昌、大城美佐子の

「19の春」を早々と歌っていた。

徒然なるままに・・・