昭和50年グラフィティー

「武田の昭和は輝いていた

団塊の世代 新たな時代へ」を見ている。

ゲスト ばんばひろふみ亀淵昭信さん。

1975年という年を思い出している。

正月は台北春節南投県草屯にいた。

その春節が終わって、2月14日。

俺は決断した。決断だった。

台中の近くの草屯から、台北

帰ることを。

訣別の思いがあったかもしれない。

彰化駅に友人が見送りに来た。

弟と。

さよならを言って、別れたのちまたやって来た。

何かを忘れていたと言って。

その後、1ヶ月半、台北に滞在した。

台湾から帰国しようという、気が

起ったのかもしれない。

台湾遊学中、一番遊びに徹したときだった。

心置きなく遊ぼうとしていた。

留学生たちと飲み明かすことも多かった。

北港媽祖廟に行った。

たまたま近くの喫茶店に易者がやって来た。

字を選ぶ占いだった。

俺が選んだ漢字は朋だった。

帰国するかどうかを訊いた。

易者は「友達が仕事を持ってくる。帰国がいい」

とお告げをした。

そして3月一杯台北青春を楽しんで。

蒋介石が亡くなる寸前、一週間まえに帰国した。

鹿児島港には、友人が迎えに来ていた。

彼がラーメン屋を新装開店すると言う。

手伝ってくれというので、彼の所で仕事をした。

鹿児島の天文館

留学中はやめていた沖縄舞踊の練習も始めた。

友人の社長の天文館飲み歩きに付き合った。

沖縄女性経営の三姉妹、奄美女性のいる名瀬とうバーにも

彼が連れて行ってくれた。

沖縄海洋博もあった。

俺は初めての長髪生活になっていた。

海洋博の沖縄会場で台湾の方向を眺めたことを

思い出した。

エリザベス女王の来日もこの年ではなかったか、

俺が鹿児島の文化センターで沖縄舞踊を踊ったのも

この年だったかもしれない。

お化粧をして一緒に練習している女性たちと

沖縄舞踊「上り口説」を踊った。

ひょっとしたら青春時代への訣別の時であったかもしれない。

78年には、待ち望んでいた仕事に出逢った。

その後、85年には定年まで続いた仕事に出会った。

そんな年、懐かしい年が1975年だった。