東京新大久保

昭和42年4月~昭和46年3月

新大久保駅の隣り、高田馬場駅を利用する

戸塚2丁目に住んでいた。

昭和42年かその翌年、1967年、68年の頃、

新大久保に通った。

百人町にある占い学校に通ったのだ。

今でも存続している日本易道専門学校。

夢中で易学、手相、人相学を勉強していた。

アメリカに行こうとしていたのだ。

易者の技を持って、

英語も勉強した。

本当にあの時アメリカに行っておれば、

英語ぺらぺらになっていただろう。

オクスフォードに留学した博昭君のように。

しかし、それに挫折したので、その後、中国語と出会ったのだろう。

占いの方はその後も学び続けた。

60歳の時、占いを仕事にしようとした。

友人の会社に占いコーナーを作って、占いを始めた。

そういえば博昭君から開業記念に花をもらったなあ。

それはしばらくしていたがやめた。

そして占いからすっかり手を引いた。

株をしていて、日本航空がつぶれたことに、

気付かなかった、自分の占いに自信がなくなったのだ。

さてその新大久保、昭44年ごろ、そこにあった公園に

デイトをしたことを思い出している。

公園でベンチに座っていたら、警官に不審尋問され、

彼女を花小金井まで送ったことまで、思い出した。

そのデイトで彼女が着ていた服を覚えているのが、

不思議。

50年前なのだ。

さて朝の4時前、昨夜録画した「コロナに揺れる多国籍タウン新大久保」

を見ている。