沖縄に夢中。
しかし本当に沖縄に夢中だったのは、1971年だった。
すべてを捨てて、復帰前の沖縄に飛び込んだ。
仕事はどうにかなると思っていた。
本気でジャーナリストになろうと思っていたら、
沖縄で実現していたかもしれない。
沖縄で俺は気付いたのだ。
俺が本当になりたかったのは教師だったと。
それで鹿児島に帰る決断をしたのだろう。
一生をかけると母にも宣言して沖縄に行ったのだったが、
母は俺の沖縄への旅立ちに涙を流した。
大学卒業時の就職も決まっていたのにと。
亡き親父の力でその会社の就職は決まっていた。
俺は新卒という意味さえ知らなかった。
気楽な気持ちで沖縄に行ったのだろう。
しかし沖縄芸能には興味があった。
俺が沖縄芸能を極めるのではなく、
沖縄芸能の鑑賞者になろうとの思いはあった。
その前の4年間、俺は落語鑑賞を極めようと思っていた。
そんな考えでの沖縄行きだった。
金のことは考えていなかった。
しかしそれから50年経って、俺はやがて台湾に飛び込み、
中国にはまった。俺には最後まで経済観念がなかった。
2008年北京オリンピックの時は中国に住もうと思っていた。
定年の1年前だ。仕事を辞めて、北京遊学を夢みて生活をしていた。
しかし奇跡が起こった56歳の時、2005年、俺はとつぜん中国長春の学校に転勤になったのだ。
それは驚きではあったが、自分の勤めていた学校が中国に学校を設立した時、そこに行ければと思っていたのだ。
その間、母が子宮頸がんを患った。俺は定年になったら鹿児島に帰ると決めていた。
そして60歳、俺は鹿児島に帰って来て、弟と交代で1週間づつ母宅に泊まることにした。母はそれから数年生きたが、母がなくなるまでそれは続けた。
そして最後は中国の勉強だと思っていた。中国芸能、特に漫才や映画・京劇を勉強しようとしていた。
中国ドラマに出会った。今は中国ドラマにはまっている。
そんなときになぜまた沖縄が甦ってきたのか、沖縄も極めたいと思い始めてきた。1971年俺の大学卒業論文は「琉歌に表れた沖縄女性の生活と心」だった。その男が沖縄に挫折して再燃、沖縄の女性に再燃したわけではなさそうだが、沖縄女性の歌声と舞踊には再燃している。
歩けなくなった、どうにか脳みそはまだ動いている。感動する心も失われてはいない、俺の脳内革命、どんな結果になるのだろうか。