美輪明宏さんが、この歌にもモデルがあったということを話された。
幼なじみのお母さんがニコヨンといわれる仕事をしていた。
お父さんが結核で仕事ができなかったので、お母さんが働いていた。
しかしある時、おはら祭だっただろうかお母さんは三味線を弾いていた。その姿を見てびっくりした。こんな芸も持っているのかと。
そのお母さんと、友人の兄妹たちのことを思い出した。
少年時代の遊びのリーダーだった。
2学年年上の彼が中学3年を終え、集団就職で去って行った。
当時の鹿児島西駅まで彼を見送った。
そして少年の遊びのグループが自然に解体していった。
1961年か62年だったので50年前だ。
彼の出達を見送った時の寂しさ、悲しさを今でも思い出す。
その数十年後、彼は鹿児島のホテルレストランに勤務して、幼馴染の同窓会を彼が開いてくれた時の盛り上がったこと。
俺も大酒を飲んでいた頃だったが、我が母親も楽しい楽しいと言って参加して酔ったことまで思い出している。