2021年11月28日

1948年 熊本県八代市で生まれた。

八代は球磨川、八代宮、彦一さん それが俺の印象だった。

1950年 弟と妹が生まれた。八代の祖父母宅でその双子の弟妹が、

はしかだったのか?小さな子供用の蚊帳に入っていた姿を覚えている。祖父は漁業をしていた。祖父が取って来た牡蠣を祖母が庭先で割っていた。弟と妹はそれを割る傍らで食べていたが、俺はそのころは牡蠣は食べられなかった。

1952年 鹿児島に移転した。親父が鹿児島に転勤で住まっていたのだ。母と弟と汽車で鹿児島に行った。その記憶はある。駅に親父が迎えに来ていた。妹は八代の祖母宅に置いてきたそうだった。

鹿児島で親父の会社の社宅に住んだが、風呂があったことが子供心に珍しかった。

鹿児島の中心地高見馬場に住んだ。すぐ友達は出来た。しかし鹿児島弁がわからなかったことも記憶にある。

1954年 三育幼稚園に通った。ずっとあとになって知ったことだが、その幼稚園は向田邦子の鹿児島での居住宅前にあった。

さくら組だった。その幼稚園まで歩いて通った。あけみちゃんという女の子といつも一緒に通園した。その後、高校でマドンナだった敏子さんもその幼稚園に居た。2年保育のお姉さん組だった。背の高いその女性は幼稚園の時、記憶があった。

1955年 山下小学校に入学した。林芙美子向田邦子が在学した学校。先日11月20日高校同期会があった。俺は行かなかったが、その小学校からの同級生たちも数人参加していたようだ。進君、克信君。

ここに書き込んでいいのかどうか、俺の誰も知らない自慢話がある。

6年生の時に全国学力テストがあった。俺は社会が100点、理科は97.5点一つ間違っていた。鹿児島で2番だったということである。自慢話になるかな。

1961年 中学校に入学した。ラサール中学校に不合格しての中学進学。ラサール中学の試験では3点合格点に足らなかったと6年生の担任が教えてくれた。一題間違ったということだっただろう。

公立中学校の最初の試験でついに1番になった。これも忘れられない思い出になる、しかし、これが俺にはよくなかった。俺は他の生徒がバカばかりと思ったのだ。

成績は日に日に下がっていった。しかし高校時代の友人たちは数学が不得手の俺を記憶しているかもしれない。中学1年の俺は数学の山下先生が黒板に書く問題をいつも1番に解答して、そのまま教室から出ることを許され、校庭で一人で遊んでいた。たぶん1年の時の同級生には俺が教室を1番に出て行く姿を覚えているのがおるかもしれない。中学校でバレーボール部に入部した。これは俺を変えた。小学校時代相撲だけが強い少年だったが、バレー部に入って市内大会優勝、陸上部や相撲部からの臨時出場選手、ソフトボールまで上手になった。この中学校時代に日紡貝塚のバレーチームが鹿児島に来た。鹿児島の名門高校鶴丸高校体育館で公開練習があった。バレー部の友人進君や克信君とその試合を見に行った。

そのとき俺が「この高校に来たい」というと、進君も克信君も冷やかした。「鶴丸に」と。

そして歴史は変わった。その翌年、そこに新設高校が出来た。鶴丸高校は元の一中跡に移転が決定したのだ。

1964年 東京オリンピックの年に俺はその加治屋町に新設された高校の2期生として入学した。

先日の同期会のメンバーはこの高校の同期生。俺が高校に行くまでの、自慢話だが、俺の自慢話は半信半疑で聞くだろうから、話半分でもOK。