中国と沖縄

沖縄への興味は、1970年だった。

中国は?

1967年大学で中国哲学などを習い始めた。

中国哲学への関心を呼び起こしたのは、

野末陳平さんだった。

1966年、高校3年生の時に、野末陳平さん著の「姓名判断入門」という本を読んだ。

中国哲学大関心の兆しがあった。

大学入学の手続きは親父が東京まで行ってくれた。

親父は第二外国語にフランス語を選んでいた。

今になれば、その時中国語を選んでおればと思う。

十代の時に長崎を旅した。

孔子廟で中国舞踊を見た。感動した。

その旅では長崎丸山花月で芸者さんの踊りや歌を愉しんだ。

それは大感動だった。坂本龍馬の足跡を求めた旅立った。

長崎丸山花月で、「将来は芸者遊びをしたい」と夢みた。

70歳になって、その夢はかなえられなかった。

俺は酒の世界には行かなかった。

台湾から始まった中華の旅をし続けた。

沖縄那覇、有名な料亭松の下があった。

ここも行こうと思いながら、とうとう行かなかった。

沖縄の琉歌、を卒業論文で調べた。

沖縄の歌人に吉屋つるという芸妓になった女性がいた。

彼女の琉歌に心を打たれた。

「恨む比謝橋や 情無いぬ人の この身渡さてやり かけて置きやら」

大学卒業時に沖縄に飛び込んだ。1971年の今頃だったかもしれない。

その沖縄から、台湾への船旅を経験した。

台湾で京劇を見た。台湾流行歌にも興味を持った。

その旅で知り合った、早稲田仏文科の学生さんが、外国旅行は映画が一番ですよと語った。その後、台湾に映画を見るたびに行くようになった。

そして台湾に飛び込んだのだ。

そんな生活だったので、今になれば、年金がそんなに多くはない。

年金のことなど考えてもいなかった。

そして50年たった今。俺の生活はテレビでの芸能堪能生活になった。

毎日琉球放送の民謡番組をYOUTUBEで見る。中国CCTVで中国芸能を毎日見ている。

長崎丸山で夢を持った芸者遊びはしなかったが、その時見た歌舞音楽には、寄席から始まって、レコードで学んだ。落語はもちろん講談、浪花節。師匠は小沢昭一さんだが、

寄席芸の柳家三亀松都都逸さのさのレコードも数枚持っている。

さてここに何やかや書き込んだが、何を書こうとしていたのかわからなくなった。

今日も忙しい日なのに、こんなことをつぶやく時間はあまりない。

今から、中国芸能を見て、朝食を食べ、プールへ出なければならない。

6時40分には出発だ。支離滅裂になったが、飯にするか。