目覚める

二十歳前に落語に目覚めた。

初めて落語の魅力に取りつかれたとき、

大感動を味わった。

何が落語の魅力だったか、その最初は覚えていないが、

新宿末広亭に通った時期があった。

食事代を辛抱してだ。

そしてレコードで古今亭志ん生を知った。

人生が豊かになった気がした。学生時代落語のレコードを買い集めた。

大学4年を終えて東京を引き上げるとき、寄席に行けなくなることが一番つらかった。

しかし、飛び込んだ先は沖縄だった。沖縄文化、沖縄民謡と沖縄舞踊に夢中になっていた。卒業論文は沖縄女性史になっていた。沖縄で、台湾を初めて旅した。もう一度来ようと台湾への思いが始まった。中国語を学び始めていた。福岡で仕事をした。台湾への思いが増してきた。仕事をやめて台湾へ飛び込んだ。1974年のことだ。大学を卒業して2年目。俺は中国芸能、京劇と台湾香港映画の虜になっていた。台湾で戦前日本時代台北高校と言われていた、台湾師範大学に学ぶことになった。帰国して、ちゃんと仕事をしようと思った。帰国して友人のラーメン屋で手伝いをしたのち、親父の友人の薬品卸会社に勤務した。仕事を好きになれそうになかった。香港を旅した。そして、香港から帰ってきたある日、とつぜん中国語教師に推薦され、高校で中国を教えることになった。教員免許は高校の社会科しかもっていなかった。それが、中国語の教師になったのだ。教師になってからは、台湾へ中国語学習の目的で何度か旅した。

そして81年、83年中国の大学に短期留学をするチャンスを得た。そして85年、高校で教員として採用された。社会科の教員免許状が生きた。中国語をちゃんと学んでいないことがずっと心に残っていた。1995年、ついに通信大学の中国文学科に学士入学ができた。卒業はしなかったが、数年間通った。そしてその大学に大学院ができたので、大学をやめ大学院を受験した。面接で、俺の学習目標を教える教師がいないということで、合格できなかった。しかし、独学ではずっと続けていた。そしてまさかのことが起きたのだった。勤めていた高校が中国に高校を設立したのだ。北京オリンピックの年には、おれはその高校の教師になっていた。定年まで4年間中国生活を体験した。

そして今なのである。やがて1時半になる、奄美民謡がまだ流れている。

朝にはプールに行くのだ、寝なければならない。