1972年5月15日月曜日

この日の記憶はあまりない。

この前年の記憶は強烈にある。

1971年、沖縄那覇にいた。

永住の夢を持ち、4月1日前後の日に、鹿児島から船で沖縄へ。

1等船室で行った。1972年は子年。

あさま山荘事件があり、オリンピックミュンヘン大会があった。

私は鹿児島大学で教員免状を取得するための勉強をしていた。

そして終了し、母校高校で教育実習。

担当教師は高校時代の担任だった。

教育実習の時、2年生の時の担任とけんかをした。

日中国交が正常化し、教育実習を終えた俺は、

沖縄を超えて、台湾へ2度目の旅をした。

すでに中国語学習を初めていた。

鹿児島経済大学の竹ノ内先生に習った。

川端康成が自殺をした年でもあった。

沖縄から台湾への興味が変わった年になったのだろう。

台湾ではホテルで泥棒に遭い、台北では可愛い女性と話をした。

その人の母親は日本語を話すことができて、台北駅で高雄行きの切符を買ってもらった。

高雄には中学校時代の同級生が居て、訪ねていった。

その時、高雄のホテルで泥部にあったのだ。

近くの交番に行き、事情を言うと、日本語を話す警官が、

「早く日本に帰れ」と罵倒された。

台湾が日本と国交断絶を宣言したときの旅で、飛行機は空席が多かった。

田中角栄を台湾の人々が罵っていた。

そんなことを今思い出している。

1970年が俺の沖縄開眼の年とすれば、1972年は台湾開眼の年になった。

それが沖縄復帰の年の思い出だ。

沖縄舞踊を習い始めたような気もする。そうすると沖縄への思いは続いていたのだろう。