この日の記憶はあまりない。
この前年の記憶は強烈にある。
1971年、沖縄那覇にいた。
永住の夢を持ち、4月1日前後の日に、鹿児島から船で沖縄へ。
1等船室で行った。1972年は子年。
私は鹿児島大学で教員免状を取得するための勉強をしていた。
そして終了し、母校高校で教育実習。
担当教師は高校時代の担任だった。
教育実習の時、2年生の時の担任とけんかをした。
日中国交が正常化し、教育実習を終えた俺は、
沖縄を超えて、台湾へ2度目の旅をした。
すでに中国語学習を初めていた。
鹿児島経済大学の竹ノ内先生に習った。
川端康成が自殺をした年でもあった。
沖縄から台湾への興味が変わった年になったのだろう。
台湾ではホテルで泥棒に遭い、台北では可愛い女性と話をした。
その人の母親は日本語を話すことができて、台北駅で高雄行きの切符を買ってもらった。
高雄には中学校時代の同級生が居て、訪ねていった。
その時、高雄のホテルで泥部にあったのだ。
近くの交番に行き、事情を言うと、日本語を話す警官が、
「早く日本に帰れ」と罵倒された。
台湾が日本と国交断絶を宣言したときの旅で、飛行機は空席が多かった。
田中角栄を台湾の人々が罵っていた。
そんなことを今思い出している。
1970年が俺の沖縄開眼の年とすれば、1972年は台湾開眼の年になった。
それが沖縄復帰の年の思い出だ。
沖縄舞踊を習い始めたような気もする。そうすると沖縄への思いは続いていたのだろう。