沖縄ラジオ

の番組を編成して作った番組のようだ

沖縄に飛び込んだのが

昭和46年4月だった

友人が琉球新報の社長夫人を紹介してくれた

俺はマスメディアにはいろうと

沖縄に行ってから思った

琉球新報の社長さんは採用試験をしてくださった

琉球新報に落ちた

沖縄テレビも採用試験をしてくださった

そこも落ちた

そして沖縄タイムスの臨時社員になった

数か月沖縄で生活をした

学校図書館を回った

沖縄の名門高校 那覇高校や首里高校にも行った

女生徒たちを見て、

高校教師になりたいと思った

それが俺の原点ではあった

吉田松陰に憧れて、松下村塾の萩を大学に行ってから

初めて旅した

松下村塾のイメージはずっと持ちつつ

教師になることはあきらめていた

それが沖縄で甦ったのだろう

鹿児島に帰り、大学で教員免許を取得した

そして社会科の教員免許状をもらい

社会科の教員採用試験を受験した

高校時代の先生が、「数学の教師ならある」と言った

俺が数学大嫌いだと言うことを知っている先生だった

その後、福岡に行った

そして会社つとめをしたが、途中で退職して台湾に留学することにした

その後、偶然中国語教師になるチャンスがあり、

数年後その学校で高校教師として採用された

そして56歳の時に、勤めていた学校が中国に高校を作っていたので、

そこで最後の務めをして60歳で定年を迎え、

今に至っている

今映像では♪なだそうそうを歌っている夏川りみが映る

昨夜は古今亭志ん朝をずっと聞いていた

相撲を見終わった6時からは中国ドラマを見ていた

今楽しんでいる俺の趣味はすべて人生を歩いた道で知ったことである

大学時代寄席に通い、

沖縄で芝居に通い、沖縄舞踊を習って、

台湾では中国語を学ぶ傍らで、京劇と映画館に通った

中国北京に2回留学をした

北京天橋の寄席に通った

最後に勤めた中国東北地方長春でも

学校の仕事が終わったら、劇場通いをし続けた

金銭を得ることには縁がなかった

しかし老後の今、フル回転で芸能を楽しむことはできている

お金を持つことが勝ち人生なら、俺は負け人生だ

テレビ、YOUTUBEで東アジアの演芸を見聞きする生活はできている

ささやかに、俺の勝利はこんな生活を手に入れることだったかもと

やせ我慢で自分を鼓舞激励している