読解力

新聞を読んでもそれぞれに違う読み方をしている。

読解力の違いがあるからだ。

深読み浅読み、ひとつの問題を見ても聞いても感受性にも違いがあるのだ。

サンデーモーニングのコメンテータの発言を聞きながら、そんなことを考えた。

寺島実郎さんは俺と同世代の人だ。

鹿児島で初めて講演を聞いた。終わってから挨拶もした。

ただ声を掛けたということだが、嬉しかった。

ちょこっと尖閣問題を今語る寺島さんに、この会話がどれだけ理解されただろうか。

アメリカが尖閣を守るとは言ったけど尖閣の所有については明言しなかった」と。

尖閣諸島問題を少しだけ友人と語ったこともある、

しかし尖閣列島の歴史については誰も語っていなかった。

台湾が日本になったとき、台湾に最初に飛び込んだ日本人の一人は薩摩人だ。

樺山資紀 1837年12月9日~1922年2月8日

「空想の世界の英雄」角川誕生日事典

鹿児島市加治屋町の生まれ、住宅跡の石碑が

鹿児島市柿本寺電停近くの東急レイホテルの向かい側にある。

初代台湾総督だ。白洲正子は彼の孫だ。

さてタイトルの読解力で書きたかったことは、

高校時代の友人市さんの事だった。

読解力のタイトルを書き込んだ時に市さんを想像したのだ。

ここに書き込んでいる俺の拙い文章、それでも読解力は面白い反応があるのだ。

俺の言外の言葉の意味を友人たちの解釈力ではっと気づかされることがある。

ふと市さんと語ってみたいと思ったのだ。

先週の日曜日彼とはちょこっと語った。

友人を送る会を主催の博昭君と準備していた時に、

二言三言話してもおもしろかった。

先日の送る会で亡くなった友人を一言語る時に、その友人と親しかった市さんに、

俺のイメージは美剣士だ。

佐々木小次郎を彼とすれば宮本武蔵が亡くなった友人。

その二人を俺がわけたのは色の白い方が小次郎、黒いほうが武蔵。

天国の哲郎君武蔵で我慢してくれ、俺には君の色の黒さが懐かしいのだ。

阿部定さんの悲しみ

学生時代にも阿部定事件は何度か語られていた。

友人たちと。

いつも笑いの中に阿部定は語られていた。

昔昔、阿部定がまだ生きているという事を知った。

テレビで阿部定の当時の姿が映ったことがあった。

俺は見た記憶がある。

その後、彼女が橋を歩いている姿が何度かテレビで映された。

阿部定さんの誕生日を調べると、1905年生まれだった。

祖母が1906年生まれだったので同時代人だったのだ。

たぶんさきほどまで見ていた淡谷のり子も同じころにはずである。

阿部定の悩みや悲しみについて語らなかった自分たちの会話の稚拙さ。

今になってみれば、阿部定は真面目に語れる対象であり女性だったと思う。

さっきまで見ていた武田鉄矢昭和は輝いていた

菊池章子の♪星の流れにを聞いた。

その当時の新聞記事が出ていた。

♪こんなおんなに誰がした の記事には、戦後満州奉天から帰ってきた女性が、

上野駅で腹をすかして途方にくれていたと。

その女性におにぎりを一つ恵んでくれた男に、身を捧げるというお返しをした。と。

戦後生まれの俺でも昭和20年後半の女性の可哀そうな姿は思い浮かべることができる。

菊池章子さんに合田さんは訊いたそうだ「こんな女に誰がしたのですかと」

菊池章子さん「戦争」とこたえた。

戦争のない平和な時代にしたいという言葉はあふれている。

どうしたら戦争のない世界になるかという話などすることはほとんどない。

歴史を語らない風潮が寂しい。俺は放浪の旅で、戦争を語り続けている人たちの話を聞いた。

沖縄でも韓国でも、台湾、シンガポール、中国でも。

社会主義の中国の怖さだけが語られているが、中国で教えた経験もある俺には、

中国では老若男女が戦争を語り続けていることを知っている。

尖閣諸島問題、何を語れば、どう見ればいいのか。

友人たちと語り合ってみたいが、誰も語らないだろう。

相次ぐ官僚の接待問題

山田広報官”曖昧”答弁

サンデーモーニングはこのことから始まった。

相次ぐ官僚の接待問題がなぜ頻繁に起こっているのか?

菅さんに原因があるんですか?

他の人では?

国会答弁の質疑応答でも、何かが違うような気がしている。

本当に問題があったの誰ですか?

今朝は歴史を語らない日本人について考えていた。

自分の周りで歴史を語ることはあまりない。

それが寂しいと、今朝は思っていた。

サンデーモーニングが始まる8時まで、「関口宏のもう一度近現代史」を見ていた。

ノモンハン事件の所で、ストップして、サンデーモーニングに切り替えた。

ノモンハン事件を語らなかった司馬遼太郎さんを思い出しながら。

阿部定事件

愛し男を独占して

血に笑ふ魔性の化身

想像も及ばぬ嗜虐性

犯罪史上稀に見る怪事件 

東京日日新聞 昭和11年5月21日

関口宏のもう一度!近現代史 昭和11年

1月30日放送

阿部定 1905年5月28日生~没年不明

「道を切りひらく人」角川誕生日事典

1974年紅白歌合戦

明け方、YOUTUBEの画面に1974年の紅白歌合戦オープニング。

なんとなく懐かしかった。

47年前の映像だから、今テレビに出ている歌手たちも、

47歳若い映像が映っていた。

昭和49年の12月31日、俺は台湾にいた。

台湾でその年の12月31日を友人たちと過ごしたであろう、

遠い記憶がある。

ある会話を覚えているのだ。

「今頃紅白歌合戦をやっているだろうな」という会話。

誰としたかはさだかではないが、日本人留学生たちとだっただろう。

台北に遊学していた時期だ。

遊学という言葉で表現するのは、勉学だったという生活ではなかったからだ。

毎日のように台湾映画を見て、京劇を見る生活。

友人たちと安酒を飲み歩いていたからだ。

しかし青春時代といえば、その1974年、75年が真っ盛りだった。

最近でも会っている高校時代の友人たちと過ごした大学時代はもちろん青春時代。

台北での青春時代は恋が活動していたからだった。

そんな時代の紅白歌合戦

出て来た歌手や映画俳優のことも書き込みたかったのだが、

当時の自分の姿が大きく浮かんできていた。

72歳になった今、歩けなくなったといっていい。

旅の情熱が枯れつつある。

旅するということは歩くことだからだ。

当時台北の街を歩き回っていた。

彷徨っていた。

淡水や基隆にも汽車弁を食べながら列車旅をした。

映画館巡りの旅でもあった。

そんなことを思い出しながらのつかのまの、

紅白歌合戦のオープニングだった。

そして今思い出した。

今日は2月28日だったと。

2月28日こそ、台湾で最も大きな事件があった日だという事を。

 

 

 

♪忘れちゃいやよ 渡辺はま子

時代を生き抜いた発禁の歌

武田鉄矢昭和は輝いていた

ゲスト 中村メイコ 合田道人

淡谷のり子さんの60歳代に映像が新鮮だった。

60代とか50代は紅白歌合戦で見ていただろうが、

覚えているのは80歳代の淡谷のり子さん。

俺が♪別れのブルースに夢中になったとき、

淡谷さんは80歳だった。

むかしむかし紅白歌合戦を祖父母の家で見ていた時、

叔父が「婆さん、あんたと同じ歳ばい」と言いながら見たことを思い出した。

その♪別れのブルースも淡谷さんが歌った。

満州淡谷のり子さんのこの歌が流れていたと本で読んだこともあった。

孟盛楠

CCTV中国文芸の主事人

この数年映像で一番見ている中国人だ

突然思い立って古い中国文芸のDVDを見ることにした

そこに彼女の若い時の映像が

2012年2月11日のCCTV中国文芸の映像が

もちろんそのころから見ていたはずだが、あらためて10年前の彼女の映像は新鮮だ。

劉徳華 アンディ・ラウの特集だ。

孟盛楠 1981年10月17日生

「バランスの危うい人」角川誕生日事典

彼女が生れた1981年は、俺の初めての中国の旅の時だ。

7月に入国したので彼女はまだ生まれていなかった。

誕生が10月17日、この年の10月10日。

俺は鹿児島高見馬場のジムにいた。

そこの休憩室でテレビを見ていた。

自由劇場オンシアターの「上海バンスキング」。

そんなことを孟盛楠さんに思い起こされた。