柔道に日本精神というのはあるのだろうか
そんな思いで昨日の柔道の試合を見た。
俺も柔道をしていた。
昨日見た柔道の試合の駆け引き、俺には無理だ。
俺は3つの得意技を持っていた。
内また、大内刈り、大外刈り。
俺の柔道はいつその技をかけるかだけだった。
鹿児島県大会ではどうにか通用した。
大学時代、大学で国体選手達と練習した時は、俺の柔道は通用しなかった。
今、テレビ画面に「サンデーモーニング」、白鵬照ノ富士戦が映された。
おれは今、この試合のことを想い浮かべながら、ここに文章を書き込んでいたのだ。
日本精神をもし柔道で遠し続ければ、国際化された柔道はなかっただろうと。
白鵬や照ノ富士、に日本精神を押し付けると、白鵬や照ノ富士に永遠に歯が立たない力士になっていくのではと。白鵬や照ノ富士、彼等はオリンピックの柔道の試合としてみると、普通のことなのである。
俺は日本式柔道にこだわった、いや日本式?柔道しかできなかった。
だから柔道をやめた。オリンピックを見ながら、国際化とは何か。
考えさせられている。
外国人に日本語を教える仕事を長くやっていた。
一番難しかったことは、日本語を教えることに関わらない職員たちの、
「日本人と同じ教育をしてください」ということだった。
外国人に厳しく注意始動してくれと、頻繁にいわれると、
「自分で直接言ってみないですか」と言ったり、言いたかったりしたことがあった。
日本精神、俺が自分に課していることは「人間としてどうなのだ」ということだけだ。