沖縄・台湾

二度目の台湾への旅はいつだったか、ずっと気になっていた。

今朝、ふと思いついた。

1972年秋だったことを。

1972年の秋、日中国交回復のあとだった。

台湾で日本人に対する風当たりがとても悪かったことで思い出した。

台湾高雄に住んでいる中学校の同級生を訪ねる旅をしたとき。

高雄のホテルで泥棒にあった。何を盗まれたかはっきり覚えていないが、現金とカメラを盗まれたような気がする。航空券は盗られていなかったのでほっとしたことも。その時、交番に行った。日本語の分かる警察官の態度が悪かったことから、72年の旅だったことを思い出した。

沖縄に初めて行ったのは1970年正月だった。その翌年には大学を卒業してすぐに沖縄生活を始めた。すぐ沖縄生活に疑問を持った。

まだ鹿児島に帰るのは早かったので、沖縄を一度離れて見ようと思い台湾への船旅をした。その後、鹿児島に帰ったが、鹿児島では教員免許を取るために大学の聴講生になり教員免許を取得した。

その時、俺の興味は沖縄から台湾へ変わって行きつつあった。

すでに鹿児島で中国語も学んでいた。

二度目の台湾の旅、調べて見なければわからないが帰りの飛行機で金大中事件を知った。そして鹿児島に帰って来たが、教員採用試験では鹿児島では社会科の教員はいらないと当時の教育長にアドバイスをもらい、道に迷っているところに1973年福岡行きを決めた。易者の黒田先生に連れられての福岡行きだった。そこへ母から電話があり、博多で仕事が決まったという。母の叔母さんの紹介でだった。

そして1年間ぐらいの博多生活。そのサラリーマンをしている時に、台湾留学への思いがました。ボーナスをもらってから台湾留学を決めて、台湾へ飛びだった。福岡の住まいにそのまま荷物を置いて、もしこの時福岡の住まいを片付けて台湾に行っていたら、本格的に台湾の留学になったかもしれなかった。75年台湾から帰ってきた。台湾で占いをしてもらった。鵬という文字が出て来た。占い師は朋が仕事を持ってくると占ったが、沖縄経由で船で鹿児島の港に到着した時、友人のラーメン屋の社長がビルを作ったのでラーメン屋を手伝ってくれと言いう。そして彼のラーメン屋に数カ月いたが、親父の知り合いの薬品卸会社に雇ってもらうことになった。

そこでも最後は社長に文句を言って12月に辞めた。腰かけ仕事ばかりだったので、勤めた会社はいつも喧嘩して辞めていた。喧嘩と云うより俺が因縁をつけたということだっただろう。

1978年、正月気分を一新しようとして、初めての香港旅をした。

帰ってくると、突然中国語講師の話があり、鹿児島の市立高校の中国語講師になった。その後は・・・

プールに行く時間が迫ってきたので、この文章も訂正ナシ。書き込みながら支離滅裂はわかっているのだが。