高校の担任

1年の時は俊一先生だった。

あだ名はハリケーン。数学の先生で、第7高校から九大を卒業した先生だった。

俺はよく叱られていた。特別補習の指導を受け、高校1年の時は先生の家まで数学を習いに通った時期もあった。成績の悪いT君、もう一人のT君、3人で習っていた。俺は数学がわからなかったわけではなかった。高校1年生の時にすでに進学したい大学は決めていた。私立文系だったので、入試科目は英語・国語。日本史だけだった。だから数学は早くに学ぶことをやめたのだった。中学校1年生の時の数学の先生は黒板に問題を1問書いて、できた生徒は運動場で遊んでいいという教育方針だった。俺は毎回1番に解答をだし、いつも早々と校庭に出て遊んでいたのだったが。それを覚えているクラスメートは中学時代でもいないだろう。

2年生の担任は伸和先生だった。この先生は俺が不得意科目の点数が悪すぎて、落第させないようにいつも心配をしておられた。倫理社会の先生で授業はおもしろかったのだが、俺は受験科目を日本史に決めていたので、面白かった倫社もまじめに熱がはいらなかった。しかし、先生が授業で話された雑談は今でも忘れていない。何の雑談か?映画野口雨情のことについてだった。その映画を見たいと思いっ続けて数年過ごしたがやがてその映画に出逢った時の感動は今も忘れられない。森繁久彌演じる野口雨情。俺は学生時代は野口雨情作詞の歌をよく歌っていた。のちに教育実習で母校の教壇に立った時の指導教官がこの伸和先生だった。おれは先生がいちいち指導されることに大不満があり、先生と大喧嘩をした。それが採用試験に影響されると言う思いはその時はなかった。しかし今になれば先生にすまなかったと本気で謝りたい心境だ。

3年の時は公雄先生だった。日本史の先生で、先生は俺をいい生徒ではないとおもっていたようだったが、俺の日本史の成績には驚いて俺を見直されていたようだった。日本史だけはたぶん学年で1番だっただろう。卒業の時にその先生が私立文系の模擬試験で1番になったと俺に教えてくださったが、そのことを知っているクラスメートは一人もいないだろう。その成績は卒業式の頃分かったからだったが、俺がここに書き込むのは誰も俺が1番で卒業したと知らないだろうから。

自慢するわけではないが、中学校入学時の試験は1番で入学した。生まれて初めての成績だったので忘れられない。そして高校卒業の私大文系の試験も1番だった。ここを友人たちは読んでいるので、半信半疑かもしれないが、本当なのである。最初で最後の密かな自慢話である。その3年の担任は8月の高校同窓会に来ておられた。車椅子で来られていたが、車いすで出席する情熱に敬服した。

俺は幼稚園の時から大学卒業までの担任を全部覚えている。