路(ルウ)~台湾高速鉄路

土曜ドラマだが、

画面にタイトルは出てこない?

2020年台北、2009年東京の

物語から始まった。

台湾新幹線計画から完成までのストリー。

そこに淡い恋物語がはさんである。

5月16日から始まった土曜ドラマ

3回シリーズだ。1972年俺の台湾ストリーも、

台北駅から始まった。

切符の買い方がわからなかった。

思い切って、駅にいた台湾小姐に話しかけた。

すると彼女は英語で話しかけてきた。

英語は話せないと英語で答えると。

「マイマザア スピーク ジャパニーズ」と言って、

母親を連れてきた。

日本語の上手な日本教育を受けた

お母さんだった。

その物語はさておき、

このドラマにはなつかしい台湾の風景、

高砂族台北の市場模様。

何よりも、湾生という台湾生まれの

日本人の戦前回顧の場面に胸がどきっとした。

台北高校で学んでいた日本人たちだ。

そして俺は妄想した。

もし俺が戦前台湾にいたらなどと。

親父は大正8年生まれ、1919年だ。

それを俺の誕生に入れ替えてみた。

俺が大正8年うまれだったらと。

熊本県八代の生まれだ。

幼稚園は代陽幼稚園、小学校は代陽小学。

実際に俺は代陽幼稚園には不合格して、

鹿児島の幼稚園に出た。

母はその代陽小学校が母校。

子どものころ、甲子園大会に済々黌が出場した。

八代の幼馴染と済々黌の話をした。

子どもごころに行きたかった。

それで、妄想では済々黌中学入学。

そして旧制高校、高校時代の俺は

三高にあこがれ、「紅燃ゆる」を歌っていた。

しかし、妄想では俺は台北高校入学にする。

昭和10年頃だ。

そして大学は京都大学中国文学科。

そうそうたるメンバーの教授陣。

卒業後は、もちろん当時は日中戦争時、

徴兵令で兵隊になっていたかもしれないが、

その部分は省く。

京大卒業後は満州の中学校か女学校の教師。

新京、大連、ハルピンで。

終戦時は大連がいい。

大混乱の満州で、

引揚が一番容易にできそうだったから。

戦後は鹿児島で高校教師、ある時期に

沖縄での高校教師。

首里高校、那覇高校、糸満高校に勤務

定年は60歳、1979年だ。

定年間近には、石垣島八重山高校勤務。

担当部活は八重山民謡研究会。

そして定年、

 

そのまま琉球大学の大学院研究生になって、

沖縄舞踊と民謡の研究。

琉球大学を終了したら、

北京留学、1988年の北京オリンピックの頃は

北京大学で京劇と相声の研究。

妄想だけでもわくわくする。

70歳を超えた今、

妄想の青春時代の中にも、実現したようなこともある。

1971年、大学を卒業して沖縄生活。

民謡と舞踊に陶酔した。

1975年は台北に遊学、

学んだ大学は台湾師範大学、

日本統治時代の台北高校だ。

81年、83年中国北京の

中国人民大学に短期留学をした。

そして2005年長春の高校教諭になり、

2009年長春で定年退職。

振り返ってみれば、どうにかこうにか、

夢実現に迫ってきたのだ。

東京で石原慎太郎たちが登場した、

旧制高校の寮歌祭、俺も大興奮して

見学をした。

夢の最後は、わが鹿児島の田舎町の破屋に、

楓花村塾と老舎茶館を持つ。

負け犬の遠吠え、これでよかろう。