マリリン・モンローと出逢った

マリリンモンローの日本の旅

今、見終わった。

数年間撮り貯めたままにしていたDVDを見て、消去した。

マリリン・モンローとの関りを思い出しながら見ていた。

亡くなったのは1962年8月5日、中学校2年の夏休みだ。

その日か、その翌日にマリリンモンローが亡くなったということを知った。

しかしマリリンモンローが何者かはしらなった。

中学校時代の同級生克信君から聞いた。

彼が英語放送を聞いた兄さんの情報として教えてくれたのだ。

兄さんは当時一橋大学の学生だった。多分夏休み中のバレー部の練習の特だっただろう。同じ同級生の進君もそこにいた。進君はマリリンモンローを知っていた。

俺はその時マリリンモンローが気になったのではなかった。克信君の兄さんが一橋大学で英語放送を聞く能力を持っている人だということが印象に残ったのだ。その後もマリリンモンローの映画を見ることはなかった。

タイトルにモンローと出逢った。

俺はその後彼女と出逢ったのである。もちろん彼女はすでに生きてはいない人だった。

1974年、俺は台北に遊学した。毎日台湾映画と香港映画、京劇を見続けている日々を送っていた。毎日だから、封切られている台湾映画や香港映画はすぐに見終わってしまう。見終わったら外国映画を見て、字幕で中国語を勉強していた。

台北のどこの映画館だっただろうか『大江東去』正しくはないかもしれないが、マリリンモンローが主演の映画だった。入ってみただけだった。しかし、映画に大感動したのだ。マリリンモンローの演技に心を震わされていた。一瞬で彼女の虜になった。日本で

の映画タイトルは『還らざる河』。それが出逢いなのだった。亡くなってから出逢った人、向田邦子もそうだった。1981年飛行機事故で亡くなったときに、向田邦子という名前が耳に入ったのだ。向田邦子は1929年生まれ、マリリンモンローは1926年。

1926年は大正15年。次に探してみたいのは向田邦子がマリリンモンローについて書き記したものがないかということに興味がわいた。もう一つは克信君に電話をしてこのことを確認してみたい。