克信君と進君

1年に1回会うかどうか記憶にはない。

しかし夢にはそれ以上に登場する。

自分の感覚では、よく夢に見る友人だろう。

なぜだろうか?と今思った。

進君は昭和30年1955年1年7組で一緒だった。

克信君は昭和32年1957年、小学校3年で同じクラスになった。

進君は親父同士が仕事を通して親しい知人だった。

子どもの時にどこかで親父同士が飲んでから、進君のお父さんが我が家にきたことを覚えている。小学校1年か2年の時だった。彼の家にはそのころ勉強をしに行ったことがあった。お母さんに習字も習った。勉強のおさらいもしてもらった。かわいい妹がいた。

生まれたばかりの赤ちゃんもいた。大きな家だった。鹿児島の繁華街天文館に行くときは、当時三階か4階のビルだった彼の家を目指せば天文館にたどりついた。

同じクラスには焼酎屋の芳史君や当時は自転車屋の正剛君もいた。

克信君とは3年生で同じクラスになったとき、意気投合した。彼と少年探偵団の話などが盛り上がって、少年探偵団ごっこをした。その頃、モデルガンのコルト銃を母に買ってもらった。彼の家は大きな茶工場だった。その工場で、探偵ゴッコをしていた。

その後、その二人とは中学受験の補習班で一緒に勉強した。学校は違ったが、3人とも中学受験に失敗した。そして中学校に行った。そこで出会ったときに、3人でバレー部に入部した。それがその後の仲が良くなる交流の初めだったかもしれない。その中学校は鹿児島県のバレー名門中学校だった。当時の3年生は県大会の優勝校。そして下級生の我々も学年別バレー大会では、1,2年生の時、市内大会で優勝したチームだった。

3年生の時にライバル、付属中学校に負けた。その中学校のバレー部にいたのが、やがて高校で同級生になった茂一君だった。茂一君はその後、我々の中学校の校長になり、定年退職した。その茂一君とは一昨日、武憲君の電話で語った。

そんななれそめが、俺の夢に関係しているのだろうか。二人とも40年続いている同期会にはずっと出席している。俺はこの数年出席が少なくなっている。

今朝夢を見たので、ここに書き込んでみたが、書き始めると思い出はつきない。

進君は子供の時からもてる少年だった。小学校2年生の時、私には好きなクラスメートがいた。その子の家によく遊びに行っていたが、クラスで遊ぶレクレーションに「インド人のくろんぼ」という遊びがあった。みんなで手をつなぎながら、好きな友達を一人づつ、獲得して大きくつないでいく遊び。「だれだれさんが欲しい」と声をかけて人を増やしていくのだが、私の好きだった豊子さんは。私を呼んでくれることはあまりなかった。いつも、「進君が欲しい:」だった。子供心にいつも傷ついていたが、進君にまけることはずっと自分も認めていた。日曜日の朝の私のつぶやき。