井田後藤寺駅からだった。
ふと思った。
俺の台湾への遊学の流れはどうだったのかと。
鹿児島で進路を悩んでいた。
鹿児島県の教員採用試験に落ち、教育委員会の高校時代の先生に相談すると、
社会科の教員は当分採用がないから、数学の教員になれば採用のチャンスがあると。
俺は心の中で怒った。高校時代けんかをした先生だったが、数学の教師にという言葉は俺の勉強して来たことを否定することになるからだった。
俺は親父が親しくしていた易の先生に相談した。先生は「福岡に行こう」と言って、
俺を福岡に連れて行った。先生のアパートに行った。そこが井田後藤寺駅下車の場所だった。
そうして福岡に行ったが、先が見えたわけではなかった。西日本新聞社を訪問したりしているところに、母から電話があったと。博多の会社に決まったというのである。
すぐ福岡に行くと、すでに仕事は決まっていた。母の従妹の婿さんだった。
その婿さんのお父さんが福岡の有力な市会議員だったので力になるかもしれないということだった。そのお父さんの弟さんが社長をしている会社に勤めた。
翌年、福岡で教員採用試験を受けて落ちた。
今、思えばその時に中国語を勉強しようと思ったのだろう、その不合格の年に台湾行きを決断した。
書き込みが長くなったが、そこまで至るスタートが後藤寺駅だったということだ。
そして1981年には、北京遊学をしていた。その帰国の上海空港で、向田邦子が台湾で墜落事故になったことを知った。
升野英知さんの向田邦子受賞でそんな縁をここに書き込みたくなったのだ。
くしくも向田邦子さんは俺の小学校の先輩になる。
彼女の鹿児島時代の住まいは、俺の出た幼稚園のすぐ裏に「向田邦子旧居跡」の表示がある。
簡単なことが、長い文章になった。